CapsLock.Note

あのボタン何に使うんだよ。

ファインダーをのぞく目。

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ついに一眼レフが私の手元にやってきました。ハロー新世界と言った感じです。2017年に入ってからあれやこれやと手を出して割と本格的にいろいろと趣味というか息抜きというか逆に意気込めるものというかを見つけては財布を開き、隙あらば財を投げという生活を送ってきたわけですが、今回も大きな買い物でした...

もちろん、さすがに初心者、エントリーモデルを選んだわけなのですよ。機種はこちらEOS Kiss X9iでございます

いやぁ高かった!いろいろと備品を買い足すつもりでいたので、Amazonじゃなくてビックカメラで買って、保証もつけて、残りのポイントでブロワーだのレンズペンだのなんだのと買い足しまくりました。

完全に初心者なのですが、実は結構前から写真を撮るの自体は大好きで、ポートレートは苦手なんですけども、特に風景が好きでした。いつかスマホカメラじゃないカメラでもっといい写真撮れたらなぁとか考えてたフォトボーイです。

さて、買うにあたって結構な迷いがありました。買うか買わざるか。これに関しては値段で迷ってただけなので財布を豪快に強姦するしかありません。次は一眼レフかミラーレスか。かなり最後まで迷いました。最終的な決め手は「かっこいいから」です。ごめんなさい。一眼レフのあのごつい方が最終的に好きになっちゃったんですって。最後は「どこのどの一眼レフ(エントリーモデル)にするか」です。これも相当迷いました。迷ってる間に脳内で5回ぐらい一眼レフ買ってます。EOS  Kissシリーズか、D5000シリーズかが良いなというところまでいって、ここからさらに機能だの細かいところをいろいろと見比べていった結果、EOS Kissシリーズの方を気に入り、そこからX8なのかX9なのか、そしてレンズキットはどうするのかというところへと。あのね、値段が値段だから仕方ないんだけども、いくらなんでも買うの難しすぎるよ。レンズキットは一本より二本ある方がお得やろ!という脳筋理論から。最終的に最新のX9iにしたのは、単純に解像度等々のアップグレードがあったからという感じです。

財布には無茶させたぜ...これからもさせるけどな...

早速直近にあった旅行にもっていったり、機会があれば持ち出して振り回しております。ううむ楽しい。昔にインスタントカメラで味わったファインダーを越えて収めるあの感覚。シャッターのきれる音。最新機種だけあって、とても機敏に動くというか、やりたいことがやりたいだけやれてとても満足です。初心者向けのガイド表示やプリセット等はじめて一眼レフを触る人にもわかりやすい表示が満載で、説明書を一通り読めばたいていのシーンはうまいこと撮りたいように撮れちゃうと思います。ええもん売っとるで...

調べればいろいろとエントリーモデルの比較とかなんとかいろいろと出てくるので、一眼レフ買うか悩んでる人は是非いろいろと比較検討してみるのが良いと思います。自分にあったカメラを。

 

これからまたいい景色が出る季節になってきました。僕は夏のあの白い日の照るうだる景色や、緑繁る風景と青との清涼感よりも、赤や黄色に染まる山や、焼ける夕暮れ、寒々しい白い青の凍える空が大好きなんですよ。これからも仲良くしてくれよな。

使いすぎ

SNSを使う上で異常にたくさんの自分ルールを課している。

中にはまぁネットリテラシーに照らせばそうなるだろうとかいうものとかも結構あるので、いちいちここに書き連ねまくっても仕方ないものもあるんだけれど、変なこだわりとして成立してるものがあるのでたまにいくつかピックアップしていくのもいいかなと思う次第である。

こういうことはだいたい生放送とかそういう場所でしゃべってもろくな論理だてにならないしね。

そういわけで、いつからやりだしたのかわからない自分ルールの一つに、SNSでの一人称というのがある。必ず「俺」は使わないということである。

普段から執拗にというかやけに不真面目な真面目さをもって日本語と遊ばせてもらっている。そういう遊びの中から出てきたルールのようなものの一つだ

それにつけてもなんでこんなことをしだしたのかというと、自分でSNSでみかける「俺」という一人称に異常におびえるというか圧力のようなものを感じていたからである。一体誰のどんな投稿を見てそう思ったのか知らないが(自分のことなのに)、おそらく動画もバリバリ投稿してSNSでそこそこ交流があったときにそう思ったからというのもあるだろう。見知らぬ他人からのかかわりやすさというものに異常にこだわった結果でもある。

もちろん文章の組み立てによってはそういうものを感じさせないものもいくらでもあるわけだが、それに気を遣うより、もういっそ「俺」を使わない方が、はるかにうまく回ってしまうのだ。「俺」を使って生まれてしまう殺気だった何かを抑えるために文章をこねくり回すよりハナから一人称を別の物にしてしまうとすっとする。

というかこの「俺」という字、いくらなんでもパワーを得すぎではないだろうか。カタカナで「オレ」と表記しても「おれ」と表記してもどことなく覇気のようなものがある。

発声してみても結構音圧があるというか、使いようによってはやはり強い力が出てしまう。

ちょっとネタ投稿しよう時にも「俺」というワードでなんかこう飲まれてしまうと感じるときがあるのだ。それぐらい「俺」というワードが文章の中で敷く圧政はすごい。「俺」というお代官が出てこようものならそこいらのネタなんぞすぐにギザギザの石の上に正座させる勢いである。何時代だ、まったく。

とにかく、SNSで何か投稿する際に「俺」を使うとたちまち考えることが増えてしまう。ありふれた一人称なのだから、それを見ておびえる人も何か抵抗も感じる人もいないだろうに、そもそも自分自身が打ちながら「これは何か違うんじゃないか」とか「なんだか図に乗ったような感じが出るな」とか日常会話レベルでは使っている一人称を封印している。

知らないだれかと会話するときいきなり「俺は、」とはいかないことを考えると、ネットの海という知らない人だらけの空間の中で常に一人称だけは整えておく、というのは我ながらさえているというか勝手に理にかなっている、という感じもしないでもない。

なんでも人間

映画、なんでも見れます。

本、なんでも読めます。

ゲーム、なんでもやります。

いや、しかし実際のところそんなに多ジャンルに手を出せてはいない。

というか一体どうやって手を出せばいいのだ。とても面倒くさい性分なのでおすすめされてもそう簡単には動けない。何か課題のように課してもやるわけもない。

かといって興味が無いわけでもないのだ。なにか踏み切る一歩の手に入れ方がいちまいちわからない。

こうなってくると本当になんでもおっけーなのか自分でもよくわからなくなってくる。

物は言いようというやつで、自分の好きなものは知っているが、嫌いなものをまだ知らないということなのかもしれん。

某で聞いたことがある「嫌いなものがないのは好きなものがないことよりも貧しい」みたいなこうなんかそういう言説。

いやはやそう聞くといくらか心に響く。

嫌いなものがわからないということは本当に大好きなジャンルの映画、本、ゲームの本当に好きなものに費やす時間が減ってしまうということだろう。

まずはそうだな、クソゲーZ級映画をもう少しネガティブな目で見るところから始めてみるべきかもしれない。