使いすぎ
SNSを使う上で異常にたくさんの自分ルールを課している。
中にはまぁネットリテラシーに照らせばそうなるだろうとかいうものとかも結構あるので、いちいちここに書き連ねまくっても仕方ないものもあるんだけれど、変なこだわりとして成立してるものがあるのでたまにいくつかピックアップしていくのもいいかなと思う次第である。
こういうことはだいたい生放送とかそういう場所でしゃべってもろくな論理だてにならないしね。
そういわけで、いつからやりだしたのかわからない自分ルールの一つに、SNSでの一人称というのがある。必ず「俺」は使わないということである。
普段から執拗にというかやけに不真面目な真面目さをもって日本語と遊ばせてもらっている。そういう遊びの中から出てきたルールのようなものの一つだ
それにつけてもなんでこんなことをしだしたのかというと、自分でSNSでみかける「俺」という一人称に異常におびえるというか圧力のようなものを感じていたからである。一体誰のどんな投稿を見てそう思ったのか知らないが(自分のことなのに)、おそらく動画もバリバリ投稿してSNSでそこそこ交流があったときにそう思ったからというのもあるだろう。見知らぬ他人からのかかわりやすさというものに異常にこだわった結果でもある。
もちろん文章の組み立てによってはそういうものを感じさせないものもいくらでもあるわけだが、それに気を遣うより、もういっそ「俺」を使わない方が、はるかにうまく回ってしまうのだ。「俺」を使って生まれてしまう殺気だった何かを抑えるために文章をこねくり回すよりハナから一人称を別の物にしてしまうとすっとする。
というかこの「俺」という字、いくらなんでもパワーを得すぎではないだろうか。カタカナで「オレ」と表記しても「おれ」と表記してもどことなく覇気のようなものがある。
発声してみても結構音圧があるというか、使いようによってはやはり強い力が出てしまう。
ちょっとネタ投稿しよう時にも「俺」というワードでなんかこう飲まれてしまうと感じるときがあるのだ。それぐらい「俺」というワードが文章の中で敷く圧政はすごい。「俺」というお代官が出てこようものならそこいらのネタなんぞすぐにギザギザの石の上に正座させる勢いである。何時代だ、まったく。
とにかく、SNSで何か投稿する際に「俺」を使うとたちまち考えることが増えてしまう。ありふれた一人称なのだから、それを見ておびえる人も何か抵抗も感じる人もいないだろうに、そもそも自分自身が打ちながら「これは何か違うんじゃないか」とか「なんだか図に乗ったような感じが出るな」とか日常会話レベルでは使っている一人称を封印している。
知らないだれかと会話するときいきなり「俺は、」とはいかないことを考えると、ネットの海という知らない人だらけの空間の中で常に一人称だけは整えておく、というのは我ながらさえているというか勝手に理にかなっている、という感じもしないでもない。
なんでも人間
映画、なんでも見れます。
本、なんでも読めます。
ゲーム、なんでもやります。
いや、しかし実際のところそんなに多ジャンルに手を出せてはいない。
というか一体どうやって手を出せばいいのだ。とても面倒くさい性分なのでおすすめされてもそう簡単には動けない。何か課題のように課してもやるわけもない。
かといって興味が無いわけでもないのだ。なにか踏み切る一歩の手に入れ方がいちまいちわからない。
こうなってくると本当になんでもおっけーなのか自分でもよくわからなくなってくる。
物は言いようというやつで、自分の好きなものは知っているが、嫌いなものをまだ知らないということなのかもしれん。
某で聞いたことがある「嫌いなものがないのは好きなものがないことよりも貧しい」みたいなこうなんかそういう言説。
いやはやそう聞くといくらか心に響く。
嫌いなものがわからないということは本当に大好きなジャンルの映画、本、ゲームの本当に好きなものに費やす時間が減ってしまうということだろう。
まずはそうだな、クソゲーとZ級映画をもう少しネガティブな目で見るところから始めてみるべきかもしれない。
人前の遠近感
もうそこそこいい歳、というか人前で自己紹介をするなんてことはもう減ってきた。
とはいえ、新しいコミュニティに入る、コミュニティに迎え入れるなんてことは普通に起こっているわけだ。
そういうわけで自分の名前を名乗り、歳をいい、好きなものだの趣味だのを言ってみることはいつまでたってもなくなりはしない。
主に最後が大きな壁になる。
趣味だ。これがなかなか難しい。
友人にこれといった趣味がないというヤツがいた。映画も本もドラマも特に見ず、好きな音楽があるわけでもなく、俳優もアニメもからっきしでマンガもよまない。スマホこそ弄るが、ゲームをするわけでもなく、自分でもこれをしてる!といったことがない、本当に寝ることぐらいしか言えることがないみたいな話だった。
聞いた時に、とりあえず驚きはしたものの、その後に続く「何かいい趣味はないか」という話を考えるにあたって、非常に頭を悩ませることになった。
常々自分でも「自己紹介に使える趣味」がほしいと思っている。例えば楽器がある程度ひけるみたいなものだ。こういうものは同じことができる人と遠近感が整い安い。上手い下手はあれど、ある楽器がひけるという共通点は盛り上がりやすくそこそこに話が持つ。
が、しかし、僕の場合そういう趣味がいまのところない(と思ってる)。
たとえば自己紹介の場でゲームが趣味です、という。これも相当悩んだ末の決断である。
ゲームの幅は広い。自分にとってゲームはPCゲームであり海外のインディーズや洋ゲーという濃い目のものが「近く」、モンハンとか国産モノは遠いのだ。つまり自分にとっては遠いゲームたちだと勘違いして話しかけられると本当に臨戦態勢になる。申し訳ない、それは守備範囲外なのだという具合だ。ガッチリ遠近感の同じ人間が見つかればドッカドッカ話が盛り上がるだろうが、おそらく、こういう遠近感のある趣味を持ってる人は、そうそう「これが趣味だ」とは言わず、誰かがボロを出すまでは自分からはそんなに行かないんじゃなかろうか。個人の意見だけど・・・
そういうわけでこういう遠近感が出やすい趣味ばっかり持っている。
映画を見ます!といえば、どういうジャンルが好きか、邦画?洋画?アニメ?
本を読みます!どれ位の頻度で?純文学?ラノベ?もしかしてマンガも含んでる?
ドラマを見ます!日本の?海外の?コメディ?サスペンス?
1人でどんどん自己紹介の沼にハマり、いざ自分の番だという時には小声でゲームですかねと答えるハメになっている。
こういう話をしながら、友人とはアイドルを好きになってると良い。という話に着地した。ある系列をもつアイドルを好きになってみれば、同じ系列が好きな人とはおおまかに話ができるし、テレビを見るきっかけにも音楽を聞くきっかけにもなっていき、芋づる式に色々なことに手をつけられる。
しかも話を振られた時に変な感覚になることも少なそうだ。もし推しが違っても、話は繋がるだろうし、詳しく知らなくても相手が詳しく話してくれるやもしれん。
好きの差こそあれ、どうにか話はできるだろうというのは非常に強い趣味である。この場合、遠近というより浅深だろう。深い人は浅い人に合わせられる。
僕も、アイドル好きになってみようかな。アイマスじゃあちょっと畑が違うか?